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14.マハーバリプラム
震災で動揺する旅人 田舎なので夜空は一層黒い。サンダルでとぼとぼ歩くと下弦の月がついてきた。中心部についたら牛、牛、牛のオンパレードで、もうほとんど牛小屋のようだった。街の人達は旅行者慣れしていて、見るからに日本人の私に、心配そうな顔でSTUNAMIがどうのとか、家族は無事かい? とか話しかけてくる。今思えば2004年スマトラ沖地震による津波でインド・タミルナードゥでも多くの犠牲者が出ていたので、他人事とは思えなかったのだろう。驚くほど道々で哀悼の意を表された。
近所の食堂で夕食にオニオン・オパッタム(インドのお好み焼き)を食べてから、宿に帰ると、宿の1階にある雑貨屋の店長から話しかけられた。カシュミール地方出身というので、5年前に旧カシュミール王国の王子様に会った話をしたら、あなたはラッキーだよと喜んでいた。かつてはマハーバリプラムもヨーロッパや日本の観光客で賑わっていたが、今は客の60%がロシア人だと言っていた。商品を勧めるでもなくおしゃべりを楽しむ、随分余裕のある男だった。この街の雑貨屋は、ディスプレイが「むげん堂」っぽくて懐かしかった。
サイババをみるかどうか悩む なので、地震のニュースを知る前までは、「サイババが私を呼んでいるので会おう☆」と考えていたのだが、それよりも何よりも日本人に会いたくて仕方なくなってしまった。心細かったのだ。とはいえ、せっかく近くまで来たのだし、インドのタミル地方に又来れるのかも分からない。インドの聖人を目撃するチャンスと言えばチャンスではある。一晩あけて朝、ネカフェで1時間悩んだ。 そして、どうやらサイババの前ではサリーを着なければならないという情報を見つけ、それはちょっと手間だな、とテンションが下がった。他にも色々規則があるようで、サイババに呼ばれて来たはずの私だったが、考えた末に行くのは辞めた。当のサイババはこの約1ヶ月後に亡くなったので、仮にこの時プッタパルティのアーシュラムへ足を運んでたとしても、会えたかどうかは分からない。 日本人やヨーロッパ人に人気の高いサイババだが、インド人にはうさんくさいペテン師と思われているようだった。あのアフロヘアの男は偽物でシュリ・サイババこそが本物の聖人なのだと、ややチンパンジーに似た風貌のお爺さんの写真を度々見せられたものだ。サイババは聖人だったのだろうか。お布施されたお金で病院を何個も作り、無償で人々に提供しているとか、教団内で数人死んでいるとか、物質化された時計はmade inチャイナだったとか、色々な噂は聞く。私にはよく分からない。もうこの世にいなくて、もう会えないという事だけが確かだ。サイババ印のお香「ナグチャンパ」は大好きなので、これはずっと作り続けてほしいなと思う。
海外で震災を経験するということ
マハーバリプラム観光
海岸寺院では、コーチンの悪夢のゲストハウスにいたイタリア人爺さんと再会するというひと幕もあった。しかし、なんせおそろしい程の気温で(すでに日中は40度くらいあったろう)、ふと気付けば熱中症になっており、夕方からひどい頭痛と吐き気でダウンした。安ホテルの隣人(白人男)は慣れた物で、日中は1度も外に出ず、テラスでのんびりペーパーバックなど読んでいた。実際、現地人も11〜16時頃まであまり外出せず、部屋ですごしているようだった。野良犬や野良牛だって寝ているのに、歩いているのは何も知らないアホな観光客くらいだ。 夜中、人生初の南京虫にやられる。1匹。隣人のいびきと虫と頭痛で寝られず。
青マンゴーの切り身マサラパウダーがけ10ルピー
そこの屋台に、青マンゴーの切り身マサラパウダーがけがあった。非常に美味。まさかこの20円ばかりの切れ端が、ゴアのフィッシュカレー、クンバーコーナムのミールスに並ぶ、今回の旅3大美味の一つとなるとは。爽やかな青い香りとほどよい塩&スパイス。たくさん食べられる味ではないが、忘れ難い味である。あと、Mamalla Bhavanという1959年から営業している食堂で特別定食をたべる。何となく古い大学みたいな雰囲気だった。
ネカフェで日本の様子を探るうちに、いてもたってもいられなくなり、プリーの日本人宿(日本人がたまる安宿)にゆくことにした。エアコン付きの清潔なバス、といっても日本の普通のバスと同じレベルだが、これに乗り、寝不足と頭痛と不安でへろへろのまま、次なる街・南インドの大都会チェンナイを目指す。
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